働き方

社畜

【社畜】

会社に属しながら、会社に利用されている人を皮肉を込めて社畜という。一説によると小説家である安土敏が作った造語という説が広く知られており、意味合いとしては会社という言葉と、家畜という言葉を組み合わせて作られた言葉である。

社畜は「会社に飼いならされている人」全般を指す。
全般というのが肝で、「会社で一生懸命働いている人」、転じて「私生活には仕事を一切持ち込まない人」、果ては「定職に就いている人」まで、「会社に飼いならされている人」として社畜と呼べる。

変化している社畜の定義

社畜の定義は前述の通り、会社に飼いならされているものということになっているが、会社から仕事を貰い給料を貰っていることを考えると、会社に属している全ての人が社畜となってしまう。そこで、新しい定義として「会社に働かされている人」全てを社畜とするというものが生まれた。つまりは与えられる仕事を与えられた場所、与えられた時間でこなす人間を社畜とするというのだ。

与えられた仕事を与えられた時間内にこなせなければ、もちろん残業をして終わらせなければならない。
これならば、確かに社畜と呼ぶに相応しい就労体系だ。しかし、最近はこの定義がさらにエスカレートしており、ちょっとでも仕事をサボろうという気が生まれたら社畜である。といったものや、休日はプライベートのことだけを考えて生きている人は社畜である。といった説が現れた。

これは、「仕事は自分のものであるから、プライベートと仕事で分けた時点で、会社に飼いならされているのだ」という半ば偏った極論から生まれたようだ。ここまでくると、何が一体本当の社畜なのか判断がつかなくなってくる。
会社を経営する人間であれば、休日も仕事や会社のことを心に留めながらプライベートと仕事をなかなか分けることができないというのもわかる。ちょっとした人とのつながりが、新しい仕事を生み出したり、新しいサービスを思いついたりすることもあるだろう。しかし、一端の社員がそこまで意識レベルを高めることができるか、またはそこまで高める必要があるのか、と考えるとその判断は非常に難しくなる。

ここで重要なのは、社畜という言葉に踊らされずに、仕事の中では自分の役割をしっかりと果たすことである。社畜と言う言葉に大して好印象を持つ人間はほぼいない。しかし、自分を卑下するために「社畜」という言葉は非常に使い勝手のよいものになっている。自分の仕事に自信が持てなかったり、仕事を一生懸命こなすことをかっこ悪いと思ったりする人間は、すぐに「自分は社畜だから、、、」といいたがる。これは非常に危険な思想である。社畜と言う言葉を徒に弄ぶと、本当の社畜ゾーンに足を踏み入れてしまった時、現実に戻るすべをなくしてしまうのだ。

社畜の定義はこれからもめまぐるしく変化していくであろう。
言葉だけが先行して有名になっていき、意味合いがいろいろな方向へ変化していく言葉の典型的な例である。「社畜」という言葉の響きは若干屈辱的に感じてしまうことから、誰もが社畜から逃れようと考えるのは至極当然のことである。だからこそ明確な定義付けが必要だが、正確な位置が決まるのはまだまだ先のことのようである。

社畜の定義は「会社に飼いならされている」という言葉に表れている

社畜という言葉が広く使われるようになった当初、俗にいうブラック企業に勤めて辞めるに辞められず、毎日を過ごしている人たちがこれに当てはまると言われていた。今では目的もなく会社に行って仕事をしているだけで、時間が着たら適当に帰る人間も社畜として認定されるようになっている。

もともと社畜という響きからわかるように、この言葉は仕事人間である他人のことを揶揄するものであった。しかし、今では自分の事をへりくだって「社畜」とアピールする人間も相当増えている。残業をしたり休日でも仕事に終われたりするごとに「私は社畜」アピールをして、他者の共感を得ようとするわけである。

低賃金、長時間で働いている社員の増加も、自らを社畜とさげすむ要因となっている。他にも通勤時間が長かったり、休憩時間が極端に少なかったりするだけで自分は社畜だと騒ぎ立てる人もちらほらでてきている。自分が勤める企業に対して、少しでもそぐわない部分があるだけで、自らを社畜と呼ぶ場合もある。自らを社畜と称する人間が、それ相応の仕事をこなしているかどうかはわからないが、こうなってくると、また社畜の定義が崩壊してしまう。

社畜という言葉の意味を原点に回帰し定義すると、会社に飼いならされているところに集約されるはずである。ここのポイントは「飼いならされている」という部分である。そう考えれば飼いならされている社畜が、会社に対して不平不満を感じたり、害をなしたりする可能性は低くなるのではなかろうか。仕事があることに喜びを感じ、右向け右といわれれば喜んで右を向くような人間が本物の社畜なのではないだろうか。とどのつまり、社畜と呼ばれる人は、自分が社畜であることに気付かない場合が多いのだ。

このように、社畜の定義は広汎かつあいまいだ。全ての会社員が社畜に当てはまるとしても、全ての会社員が自分を「会社に飼いならされている人」と思っているとはいえない。問題は「絶対にこれ」と言える社畜が存在しないことだ。具体的な定義付けがない限り、社畜というイメージは肥大化してゆく。最悪なのは、自分を社畜と呼んで卑下し、同じ社畜同士でつるむことだろう。これは「馴れ合い」や「傷の舐め合い」といっていい。

会社のために働く社畜に未来はない

社畜の中には「会社のために」という理由で、どんなことでもこなす人間も存在する。始発で会社に来て、終電で帰る。または会社に泊まりこんでまで仕事をしている。作業効率は度外視して、会社に居残り続ける人間までいる。これを自ら喜んでやっているのであれば、その人は立派な社畜であろう。仕事はやらざるを得ないことなのでこなしているが、少しでも嫌だと思う気持ちがあるのなら、社畜から脱却するチャンスはある。

社畜という言葉の特性上、会社に対する忠誠心が高いという意味で捉えられればいいが、そういう人ほどリストラにおびえ、仕方なく社畜として振舞っているのが現実。そうした状況につけ込み、社員をこき使う企業側の問題も大きい。

社畜として働いていくことは、会社にとっては都合のよい従業員であることには変わらない。しかし、社畜は社畜以上にもならないし、以下にもならない。ブラック企業の横行が従業員社畜化を進めているが、一度組織に組み込まれてしまうとなかなか抜け出すことはできないのが今の就労のシステムである。社畜と呼ばれる人はいち早く自分がいかに社畜的に仕事をしているかに気付かなければ未来はない。結局のところ、あなたが社畜にならないためには自分で自分の身を守るしかない。あなたは会社で「働いて」いるのか?会社に「働かされて」いるのか?それはあなた自身の気の持ちようであり、会社の組織としてのあり方でもある。もしあなたが今「働かされて」いると感じるならば、今後どう「働いて」いけばいいのか、考える必要があるだろう。

社畜従業員から抜け出し、自分らしい働き方を見つけていかなければ、今後の社会では生きていくのは難しい。自分の状況を把握し、多くの人が社畜から抜け出すことを願っている。

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