
地方課題解決するUターンフリーランスの挑戦
なぜ34歳で地元でのフリーランスを選択したのか
地元から東京に出て十数年。経験と人脈をつくり、思い出のある故郷へUターン。フリーランスとして活躍するデザイナーがいます。仕事そのものが首都圏に一極集中する中、いかにして地方で生活していくのか…。生まれ育った土地を盛り上げたいという想いを抱きながら、34歳からのUターンでの挑戦に迫ります。(powered by THE LANCER編集部)
地方に仕事がない……に立ち向かうフリーランス
高校を卒業すると、同級生の大部分が地元を離れていく。渡武志さんも、その一人。人口7万人ほどの離島、奄美大島。島内に大学などの教育機関が存在しないため、18歳の春になると大多数が海を渡る。
数年後に島へ戻ってくる同級生は、渡さんの肌感覚で3割~4割程度。それでも多くの人は、郷土愛のようなものを心に持ち続けているそうだ。
「鹿児島と一緒にされるのは嫌だ、沖縄と一緒にされるのも嫌だ。でも、それなりに島に対する思いはある」という、複雑なアイデンティティ。
奄美に限らず、地方から都市部へと移り住んだ人であれば、『都市部に残るか、地元に帰るか』という選択肢が、一度は頭に去来するのではないだろうか。
立ちはだかるのは、「地元に戻っても、仕事がないし……」という大きな課題。30歳を過ぎてからUターンを決めた渡さんの働き方に、ひとつの解決方法を見る。
地元を離れ東京で、スキルと実績を積む
―高校卒業後に上京し、34歳にして地元へ戻ったそうですが。まずは、島を出て、戻ってくる前までの話を聞かせてください。
渡 奄美には高校までしかないので、大学に通いたいと思ったら島外へ行くしかないんです。僕も行きたい大学が福岡にありました。現役ではダメだったので、福岡の予備校に通うことにして。
でも翌年も断られたので、とりあえず上京して、予備校に通いながらアルバイトをしていました。
3度目の正直……にはならなかったので、もう諦めようと。たまたま読んでいた雑誌に、僕の好きな格闘技の雑誌なんですけど、映像制作会社の求人が出ていたんです。
格闘技とかプロレスを中心につくっているということで、応募してみたら受かってしまったので、進学することなく働き始めました。
ハードな仕事だったので、いつまでも続けられないと感じたんですね。たまたま、近くに東京ビジュアルアーツというエンタメやクリエイティブ系の専門学校があって。
僕の空いている時間にオープンキャンパスがあったので、参加してみたら面白かった。会社で映像をやっていたので、今度は2D、Macintoshでやる誌面を勉強しようと思ったんです。
翌日に辞めますと伝えて、入学しました。グラフィックとか雑誌の編集、広告づくりを勉強しながらアルバイト生活。中堅くらいの印刷会社でDTPの仕事をしながら、就職活動もしませんでした。
2年ぐらいしたところで正社員として雇ってもらえて。段階を経て、デザイナーになってディレクターになって、最後は営業をするくらい、色々な仕事を経験できた時期です。
一度は離れても、やっぱり郷里への想いはもっている
―地元へ戻ってきたのは、どんなきっかけなんですか?
渡 いずれ島に戻りたいとは思っていたんです。やっぱり愛着がありますからね。じゃあ実際に帰るとなると、なかなかタイミングつかめないところはあって。当時、仕事が一段落する時期が見えたので、ここで帰らなければ、また先延ばしになると思って、決心しました。
―仕事のアテはあったんですか?
渡 島に戻る前、正月で帰省したときに、奄美市内をカバーするコミュニティFMの代表と飲む機会があって。「うち、求人してるよ」って言うんで、じゃあお願いしますと。
なので島に戻ったタイミングでは、会社に属することができたんです。FM放送の番組制作なので、割りと自分がやりたい『何かをつくる』という方面で。
―自分の興味がある分野、特にクリエイティブとかだと、やっぱり仕事は少ないんですよね?
渡 島に残るとか戻るというときに、仕事がないというのが一番の問題だと思います。でも選ばなければいっぱいあるんですよ。
多分みんな、それぞれ違う場所で学んだり、就職して経験を積んできたので、同じような仕事に就きたいと思うんじゃないですか。そういう意味では、やっぱり仕事がないということになります。
僕の場合は、本当に運が良く。戻ると決めたとき、やっぱり地元を盛り上げたいとか、島おこしをしたいという気持ちがあったので、うってつけの仕事に就けたんです。
島を離れた多くの人が、興味はあるんじゃないですか。『鹿児島と一緒にされるのは嫌、沖縄と一緒にされるのも嫌』という中途半端ですけど、島に対する想いやアイデンティティはあるので。
地元での経験と人脈、東京での経験と人脈をかけあわせて
―島おこしができそうな仕事に就いたのに、どうしてフリーランスに?
渡 ラジオ局に勤めた2年半の間に、本当にいろいろな仕事をやらせてもらって。その中に、各分野で活躍なさっている島の人や、島外で奄美のPR的なことをしながら活躍する人を招くコーナーがあったんです。約24分間、生放送で話を聞いて。
最前線でがんばっている人の話を、毎日、聞くんですよ。モニターしてるんで、もう耳元で洗脳されるかのように(笑)。だんだんと、「おまえもやんなきゃダメだ」って言われてる気がして。
ラジオ局でがんばることもひとつなんですけど、もっと自分が培ったもの、東京での経験とかを島に還元しながら、それで飯を食っていきたいと思うようになったんです。
とはいえ独立したばかりの頃は、生活できるほど仕事はありません。今から1年前までは、焼き鳥屋でのバイトが収入の柱。デザインのほうは、知り合いのツテでちょこちょことやっていました。東京時代の知り合いから、忙しくなるので手伝ってくれないかと言われて。
―その他には、地元で営業活動をして仕事を獲っていくんですか?
渡 営業活動はやれてないんです。ありがたいことに、FM局でできた人脈で、いろいろな話を振ってもらえて。それで何とか食いつないでいる状態ですね。
あとは、いま働いている場所がシェアオフィスになっていて、そこで一緒にやっている仲間から仕事を回してもらったり、一緒にやったりというのが多くあります。
僕が参加させてもらっている『Shall We Design』というグループがあって、代表者が広告塔になっているというか、メディアに出る機会が多くて、行政とか企業からの引き合いがあるんです。
―島内でデザインの仕事をしてみて、東京との違いは感じますか?
渡 東京の感覚で値段をつけると、とてもじゃないけど応えてもらえないですね。こっちとしては、それなりの金額をいただかないと意味がないので、そこは知恵を絞って。
例えば、ロゴの作成依頼をいただいたレンターカー会社の例なんですけどね。ロゴをつくったら、それに見合うパンフレットもつくりましょう、空港まで送迎するわけだからジャケットもつくりましょうとか。パッケージ化して、グロスを上げる努力をしています。
―試行錯誤しながらということですが、Uターンしてフリーランスになるうえで、役に立った過去の経験などはありますか?
渡 東京で勤めていたころ、印刷会社のSPをメインにやっている部署にいたんですね。デザインだけじゃなく、最後のほうは営業というかディレクションまでやっていたことが、今に活きているかなと思います。
あとはFM局での経験ですね。ラジオですけど一番の目的は島おこしだったので、いろいろなイベントをやるんです。ラジオ屋なのかイベント屋なのか、たまにわからなくなるぐらい。
大変ではありましたけど、なんでもやる経験はやっておいて良かったです。クリエイティブに限らず。東京でも地元でも、人脈づくりや多方面の仕事を経験できたのが活きているんじゃないでしょうか。ゆくゆくはこの経験を、自分が生まれ育った場所に還元していきたいですね。
(了)
▽フリーランスの情報発信メディア「THE LANCER」より転載