
才能がないと思ってる人にも「才能」は必ずあるはず
<変人・安田の境目コラム>
才能のあり・なしの前に、「才能とはなにか」を考えたことありますか
どうやら才能がある人と、才能がない人がいるらしい。これを否定してもしょうがないと、私は思っています。ただ、努力すれば何とかなるとか。限界を決めているのは自分自身だとか。そんなことを言う人たちは、才能の定義が狭いのだ感じます。
たとえば勉強ができる才能。ちょっと勉強しただけで、いつも100点を取ることができる。すごい才能だ!とか。きっとそれは暗記という才能ですよね。でも勉強の才能はそれだけではありません。たとえば昆虫のちょっとした個体差を見分けることができるとか。むつかしい実験を苦もなくやってのけるとか。表情から感情を瞬時に読み取ってしまうとか。色の組み合わせにすごいセンスがあるとか。
そんなものは勉強じゃない?それが薄いと言っているのです。
子供の時はテストの点数。大人になったら稼ぎの金額。その数値が大きいことが才能であると。とても、とても、狭い世界でしか、才能を語ろうとしない。だから先のような言葉が出てくるのです。テストが苦手です。営業が苦手です。という人たちに、そんなものは自分で決めているだけだ。まだまだ努力が足りないのだ。と。
あなただって100点取れる。あなただって売れる営業マンになれる。
確かに努力すれば、今よりはできるようになるでしょう。でもそれは正しい努力なのでしょうか。
稼げることをできるのが才能ではない。「誰かの役に立つことができる」のが才能
才能を狭い範囲で捉えてしまう。それこそが才能を殺してしまう行為だと、気がついて欲しい。とくに子供を育てる親や、先生たちに。
穴があるということは、そこには何もないということでもあります。だけど穴が役に立つことだってある。ないことがあることに勝る時もあるのです。人には生まれ持った才能がある。これは誰もが認める事実です。重要なのは才能の定義です。学力や売上では測れない才能。そういうものが無数に存在するのです。
才能とは個性に他なりません。その個性は誰のどういう役に立つのか。求める相手と繋がったとき、個性は才能として光り輝くのです。
